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英文和訳という『趣味』はいかが? 安西徹雄「英文翻訳術」

驚くことに、英語でメールは書けるし、会話することも出来るという方の中には、英文を読むのはちょっと苦手という人も案外少なくない。

異言語を読むにあたっては、書いたり話したりする際とは脳の異なる部分を使っているのではないか。そんな気すらしてしまう。


実際に自分が英語を聞いているときも、英文の構造を意識するようなことは、あまりないように思える。
日本語でもそうであるように、話し言葉と書き言葉は往々にして違うのだ。

したがって、一見するとシンプルな英文であっても、脳内で訳してみると、筆者の意図と真逆に訳してしまうことすらある。
たとえば、次の英文はどうだろう。

No honesty will make a man useful if he is foolish.

 
ちょっとだけ上の文の訳を考えてみてほしい。

 

ちなみに、この例文は今回取り上げる以下の文庫本からのもの。

 

英文翻訳術 (ちくま学芸文庫)
安西 徹雄
筑摩書房
売り上げランキング: 6,377

 

執筆者の安西氏による例文訳は次のとおりだ。

 

「いくら正直でも、バカでは役に立つ人間にはなれない。」


どうだろうか。
このような否定語句や関係代名詞といった、日本語的に読みにくいフレーズが絡んだ場合は特に、訳者のセンスが滲み出やすい。

そして本書にあるように、時には大胆に英文を分解したり、思い切った意訳を試みないと、そもそも訳文として通じないという事実の存在は、英文和訳のダイナミズムすら感じられる。

そのため、読みにくい英文を、自身の持てる技術とセンスを結集させて和訳するというのは、まるでクロスワードパズルや数独を解くのと同じように、頭の体操にも趣味にもなるのではないだろうか。


実際に本書では、筆者が翻訳について社会人向けに講義を行っていた際の生徒の翻訳を手直しするもようも盛り込まれており、「自分ならこの難解な文章にどう挑むだろうか?」という読み方が出来る。

また、終盤では翻訳者に対し、翻訳作業の金銭的コストが急激に下がってきた昨今だからこそ、翻訳を愛することの重要性について説いておられる。


そのような、翻訳者ではない私が個人的に読んでいて興味深く感じたのは、関係代名詞の絡んだ文章を訳す際にありがちな、和訳すると元の文章より長くなりやすい(ときに冗長にも感じられることすらある)問題について。

これについて、筆者は以下のように述べている。

 

情報論の用語でいうと、これは"redundancy"の問題――つまり、ある一定量の語数に、どの程度の情報量がふくまれているかという、そのレヴェルの問題で、関係代名詞に限らず、一般に翻訳を情報理論の立場から分析すると、「すぐれた翻訳は原文より長くなければならない」という原則が認められている。



要するに、実践的な立場からして、訳文が原文より長くなることは気にしなくてよい、むしろそれが当然であり、必要でさえある…


多少なり近接した領域である機械学習の分野でも「情報の損失」という概念が存在するだけに、個人的には示唆に富むフレーズであった。


この他、無生物主語の構文や、品詞の種類を変えて訳すと良い場合など、脳の普段使わない部分を刺激してくれる例文がたっぷりの本書は、お酒を楽しみながらでも読みやすい文庫本。ぜひ興味がある方は試してみて欲しい。

ちなみに筆者の安西徹雄氏はシェイクスピア作品などの和訳を手掛けていた方なので、例題で取り扱う文章はところどころ今風ではない点はご承知おきを。
とはいえ、その場合にも原文が今っぽくなければ、和訳もちょっと古めの表現を使うなど、訳者のセンスの見せ所なのかもしれない。


それでは、最後に本書からもう1つだけ例題を引っぱり出しておこう。
筆者の訳出は注釈をご覧いただきたい。

A slight slip of the doctor's hand would have meant instant death for the patient. *1

 

BOOK

*1:医者の手がほんの僅かすべっても、患者はたちどころに死んでいたに違いない。